日本に帰って来てからは、思う存分読みふけりましたが、読んだ本のほとんどが高校生から20代前半で読んだことのある本ばかり。内容は完璧に覚えているつもりだったのですが、同じ本でも、結婚して子供を産んだ今読むと、本当に感じ方が全く違っていて驚いてしまいました。太宰治は、決して好きな作家では無かったし、彼の作品には「女癖が悪い、だらしない、心が弱い」というイメージがこびり付いて、いつも読んでいくのが辛かったのですが、そんな彼の作品でさえ、今読み返してみると、その奥の苦悩まで考えることが出来た気がします。
今思えばあの頃の私は「名作と言われる作品を読んだことがないなんて恥ずかしい」という気持ちから、名作と呼ばれるものを読破しようと必死でした。その理由は、やはり書店でアルバイトをしていたからでしょうか。純粋に本を読むことは大好きだったのですが、書店の仲間は読書フリークばかり。彼らとの会話の中には「最近、何の本読んだ?」「今年の本屋大賞の作品どう思う?」「あれって、嵐が丘に内容が似すぎてるよね!」などなどの会話が日常的。そんな彼らの会話について行きたくて、とにかく読む必要があると思った本は、出来るだけ読むようにしていました。そんな中で読んだ、ジェーン・オースティンもトルストイも「面白いから読む」のでは無く、「内容を知っておいたほうがいいから読む」という感じで、あらすじは分かっても作品に心打たれたことは無かった気がします。
そんな中、たまたま暇つぶしでキーラ・ナイトレイ主演の「プライドと偏見」を見たのですが、本当に感動してしまいました。あれ?ジェーン・オースティンって、こんなに深かったっけ??それを期に、ジェーン・オースティンの全作を読み返し、その他の色んな本を読み返し中ですが、読み返す度に新しい発見が。なぜか主人も私に感化されて、谷崎潤一郎や川端康成の本を読み返し出しています。
ここで不思議に思ったのが、私は「プライドと偏見」を英語で読めるのですが、主人は夏目漱石の作品が日本語では読めないのです。谷崎潤一郎は、頑張れば読めるけど、「たけくらべ」なんて絶対に無理だそう。ここで補足なのですが、私の主人は日本に滞在して20年目。しかも、日本に来る前から日本語を勉強し、今では日本人並みに流暢に会話し、本も読みます。そんな主人が、少しでも昔の作品だと読めなくなってしまうので、驚いてしまいました。でも確かに、今の文章とは大きく違いますよね。それに比べて、200年前のジェーン・オースティンの英語は、多少は違いがありますが、割とスムーズに読めてしまうから不思議です。英語は、そんな昔から完璧に近い形だったのでしょうか?それとも、日本人は、常に言葉使いを変えすぎ?
そういえば、先日東京に遊びに行った時に、電車で隣に座っていた女子高生の会話をつい聞き入ってしまったことがありました、、、、だって、すっごく不思議な話し方で。
例えば、「つ」というのを連発するのです。「それって”つ”じゃね?」「いやいや、私”つ”だけにはなりたくないわ」とか。話を聞いていると、どうも「都合のいい女」を略して”つ”と言っていたみたいなのですが、本当に最初はわからなかった。あと「◯◯なパターン」というのを「◯◯なパティーン」と言ったり。「一時帰宅」を「イチキタ」と言ったり。普段女子高生と会話する機会が無いからだと思うけど、私の女子高生の時とは全く違う言葉使い。このままいくと、娘が女子高生になる頃には、とんでもないことになりそうですね。
それで思い出したのが、結構前に主人から来たメールの返事が「JK NP」のみで、「え?!女子高生、ノーパン?!」と返事をしたら「Just kidding. No problem.(冗談だよ、問題無い。)だよ!!」と笑われたことがありました。だって、女子高生の略語だったらそうなるんだもん。そう考えると、主人の省略しまくりのメールも女子高校生と通じるものがあるのかな。
最後に、普通の風船で空を飛ぼうとしていた娘。
「蝶々だよ〜!パタパタ〜!」と言いながら何度もジャンプしていましたが、最後には「あれ〜?飛ばないね!!」と気づいたみたいでした。
この前も、両手にウチワを持って飛ぼうとしていた娘。いつか成功するといいのにね!
0 件のコメント:
コメントを投稿